言葉のリバースエンジニアリング①
おとなの人生を
変えるのは、
たいてい恋か、
仕事です。
ーーリクルート スタッフィング
「仕事を変えれば人生変わるかもしれない。だから仕事探してみようよ」と気づかせたい
↓
まあでも「人生変わるかもよ」って言っても聞いてくれないだろうね。
↓
・まず「あなたのことを言っているんです」と伝える
・もっと現実的な、落ち着いたトーンにすることで説得力をつける
↓
「仕事はおとなの人生を変えます」
↓
ほんとかよ、と。急に言われても。
なにかワンクッションはさみたい。
↓
もっと説得力つけるために、
「同じようにおとなの人生を変えるもの」
でかつ
「自然に、説明不要ですっと読んで入ってきておもしろく納得できるもの」
を並べたい
↓
それって「恋」だな
↓
「恋と仕事は、おとなの人生を変える」
なるほど、んー
↓
最初に「恋と仕事」って来てしまうとちょっと意味がわからなすぎてその後が読まれない気がする。くさいし。
もっと文の最初では興味を湧かせる必要がある。
↓
順番として先に、
この文を届けたい人がきっと無意識下で思っているはずの「なんか変わりたいなー」に刺せば早く意味を伝えられるのではないか。
だから先に「おとなの人生を変えるのは、」としたほうが「お、それは何だ?」と続きを自然に読んでくれそう
↓
「おとなの人生を変えるのは、恋か仕事です」
↓
あー、この順番のほうがいいな。
でも「恋と仕事です」って言われてもなんかくさい。ほんとかよ、と。そんな世の常識です、みたいに言われても。だから、あくまでこちら側の一意見です、私が思うに、そういうときもある、みたいなテンションで述べたい。
そしてあくまで「仕事があなたの人生を変える」ということに気づかせたい。
↓
「おとなの人生を変えるのは、たいてい恋か、仕事です」
現代人のうつ傾向はスマホのせいだ。物理的な意味で
現代人って多かれ少なかれうつ傾向じゃないですか。すいませんいきなり。
将来にたいして漠然とした不安を持っていたり、どうすればいいのかわからなかったり、
日常を過ごしてる心情円グラフを書けば絶対「アンハッピーな時間」のほうが多い人のほうが多いはず。
それ原因スマホが結構大きいと思うんですよね。
いやネットとかSNSとかそういう意味ではなく、物理的な意味で。
スマホはヒトを「下に向かせる」
スマホを見てるときって大体姿勢が下を向いているじゃないですか。
それなんじゃないかなと思っています。
よく「割り箸を口に横にしてはさむ→笑ったときの口の形になる→気分がよくなる」とか、
「悲しいから泣くんじゃなくて、泣くから悲しいんだ」
などといいますが、それと同じで、
「うつむいているから悲しいんだ」になってしまっているのではないかと。
脳の成り立ちを考えても、もともと脳は身体とともに機能するようにできています。
身体はあくまで入力装置で、脳はそれに対して出力をする仕組みです。
(だからやる気を出したい時は、頭でやる気を出そうとするのではなく、とにかく「足上げ」をしたほうがやる気が出る)
いやスマホが無かった時代も下向いてたじゃん?という反論
スマホが無かった時代も、本を読んでいたり読み書きをしていたり、で
身体は同じように下を向いていました。
でもそれとスマホが決定的に違う一つの要因は、
「透過光である」ということだと思います。
紙は「反射光」です。紙自体が発光して目に届いているのではなく、
外部の光源からの光線を反射させています。
一方スマホはそれ自体が発光している「透過光」です。
テレビやモニター画面も透過光ですが、この透過光の特徴のひとつに、
「ヒトを中毒にさせる」効果があると言われています。(まだ確定ではなさそうですが)
それ自体が発光しているモノを、人間は無意識に熱中してしまうそうです。
ある説には、「暗闇という究極の不安を解消してくれる『光源』にヒトはとてつもない恍惚感を覚えてしまう」だとか、「ヒトの営みを可能にしてくれる太陽は透過光だからそれと近しいモノには恍惚感を覚えてしまう」だとか言われていますが本当かどうかはまだアレです。
でもどちらにせよ、透過光のものを見ることにヒトは中毒性がありそうなのです。
だからより深く入り込んでうつむく姿勢をしてしまう。
そうすると入力器官である身体は「あれ、自分落ち込んでんじゃね?」と反応する。
脳はその信号を受け取り「あれ、自分落ち込んでるな。ちょっとガード固めよう」的な感じでたとえば身体に「守れ」信号を送る。
「守れ」信号とはすなわち活発になるな、なにか問題がある、下手に動くと動物たちに殺されてしまうかもしれない(脳は本気でそう思っているはず)、みたいにヒトを軽いうつ傾向にさせる。
こんな感じで現代人の慢性的なうつ傾向につながっているんじゃないかと思うんです。
スマホを見過ぎず、物理的に前を向く
テレビの時代ってよくも悪くも今ほど暗い精神状態じゃなかった気がします。
いやもちろん景気とか出生率とか年金とかSNSとか今と違ったかもしれないですけど。
でもそれを抜きにしたってなんだかもっと余裕があったはずだと思います。
その原因のひとつに「単にテレビは物理的に前を向いて見るデバイスだったから」
っていうのが冗談ぬきにあるんじゃないかと。
まずは電車ではスマホを見ない、とか、
一日一回上を向く意識をつける、とか、
それだけでも気分がほんのすこし変わるかもしれない。
そんなことを思いながらスマホでこの記事を書きました。将来が不安だ。どうすればいいんだろう俺。
いじる側が強者側で居続けられるたった一つの理由
どんなグループにも「いじる側」と「いじられる側」とがあります。
そして往々にして「いじる側」は強者側であり、「いじられる側」は弱者側になります。ナチュラルにいつも、いつの間にか「いじられる側」になっている人はどのグループにも数人いるのではないでしょうか。
いつも「いじられる側」でいることが多い人はこう思うときがあるはず。
「なんでいつもいじられてばかりなの?」と。
「損してね?」「いじられたくない!」「いじる側になりたい」と。
「いじる側」がいじる側という強者で居続けるのには、たった一つの理由があります。
それは、「それに見合うメリットをいじられる側に提供し続けているから」です。
いじられる側には、もちろん損している感があります。
しかし、その損している感に見合う、メリットを得ているからこそ、ずっと「いじられる側」でいてもいいとどこか無意識下でも思っているのです。
そのメリットは例えば、
「先輩後輩関係だったら、先輩から色々と教えてもらえている」であったり、
「カーストの高いグループに所属できている」であったり、
「低リスクで他グループからの脅威を受けないで済む」であったり。
「そのグループから簡単に抜け出せないからガマンする」というのも、それはそれで「リスクを伴う行動に移さなくて済む」というメリットを受けてしまっています。その環境をいじる側がつくりだしているのです。
でなければ、あなたの脳の無意識センサーは
「流石にこれおかしいぞ」とそのグループにいることをあなたに止めさせようとします。
「そこまでの損をしてまで、ここにいなくていい」と。
逆にいじる側は、いじられる側に同じグループにずっと居てもらうためには、それに見合うメリットをずっと提供し続ける必要があります。
いじられる側も、その”取り引き”が見合わないと思えば、そのグループを見切るという選択があります。もちろんそれが、なかなか難しいことも多いのですが、客観的に見て、「受けている”損している感”と、それに引き換えて受けているメリットが合わないな」と思ったら、無理して黙ってガマンする必要もないな、とどこかで考えておいたほうがいいと思うのです。あくまで、物と物の関係に限らず、人と人の関係も、自然にギブアンドテイクになっていく気がします。
ほら、この記事に☆を付けたくなるように。
あ、まだそんなにギブされていませんか。
「選ばれたのは、綾鷹でした。」は正のフィードバックを生んだ
「選ばれたのは、綾鷹でした。」
このフレーズ、誰しも一度は言ってみたり使ってみたりしたのでは。
そして、店頭のペットボトルが並んでいるところに行って、
何も考えてなかったのにこのフレーズが頭に浮かんできて、
つい綾鷹を買ってしまったことがある人もいるのでは。
この商品、もちろん味も美味しいのですが、
この強すぎるフレーズも少なからず、売り上げに貢献しているはず。
このコピーは適用範囲の拡大をそれとなくバレないようにやってのけている
このコピー、元はと言えばテレビCMで使われたフレーズで、
100人の審査員に「急須で入れた緑茶に最も近いのはどれ?」という質問をし、
最も多く選ばれたものが綾鷹であった、と表しています。
だから、このコピーからそのまま事実だけを受け取るとしたら、
「100人に”急須で入れた緑茶に最も近いのは?”と聞いたら綾鷹が選ばれた」
ということを表しているのに過ぎません。それ以上のことは言ってない。
だから、元々のこのコピーの「選ばれた」が指す適用範囲は、
日本コカコーラ社が集めたたった「100人に」「緑茶の中から」だけでした。
ところが、(おそらく意図的に)その「100人に」と「緑茶の中から」という部分を
忘れ去られるように、「選ばれたのは、綾鷹でした。」というコピーに持っていく。
その結果、「選ばれる」ことが「100人に」から「市場に」というイメージに変わり、
「緑茶の中から」から「ペットボトルから」、「飲料から」、「全てから」と
適用範囲を勢いのままに広げていきました。
小さくてもいいから既成事実を作ることの重要性
もちろん、テレビCMを放映する時点において、綾鷹が他の緑茶よりも
「急須で入れたっぽい」と思われるくらい美味しかったことは事実です。
だけど、たった100人です。しかも本当に1回目なのか?何度もやってたまたま何度目かにこの質問で勝っただけじゃないのか?とか色々意地の悪い疑問は生まれます。
しかし、一度「100人に最も多く選ばれた」という事実が出来、それが広まれば、
とりあえず「一番選ばれた」ということは主張できる。
その主張は、「へえー、そんなに選ばれたってことは美味しいはずだ」という気持ちにつながり、そんな気持ちで飲んだお茶は美味しく感じるはずです。
(かの有名なワインの実験がありましたよね。「10万円」というラベルを張った瓶と「3000円」というラベルを張った瓶に同じワインを入れて飲ませてどっちが美味しい?と聞かれると「んー、やっぱ10万円のほうが旨いな」と答える人が多くなる、というやつ。)
優位な先行記憶は、別にそこまで厳密ではない事実ですら充分に作れてしまい、
その記憶によってその事実よりももう一段大きな事実に変わることが出来、
それが更に有意な先行記憶へとつながり、、という
正のフィードバックを作ることが出来ます。
「選ばれたのは、綾鷹でした。」から始まる正のフィードバック
今回の綾鷹だったら、
「100人に最も急須で入れたお茶に近いと選ばれた」→
「それを見た一部の人たちが”へえー、じゃあきっと美味しいんだろうな”と思う」→
「飲んでみたら美味しい(と感じる)」→
「売り上げが上がる」→
「えー、こんなに買われているんだ、じゃあ美味しいんだなと思う人が増える」→
「多くの人が飲んで美味しい(と感じる)」→
「綾鷹は美味しいと思う人が増える」→……
とどんどんと続いていく正のフィードバックを得たと思うのです。
でもこの正のフィードバックの一番始まりは、
「たった100人に」「緑茶の中で急須に一番近いのは?」という質問で
最も選ばれた、という事実のみであり、
それを「選ばれたのは、綾鷹でした。」というコピーによって、
一気にその適用範囲を広げていったことが重要だと感じます。
一度小さくても既成事実を作り、
そこから拡げるための戦略(今回はコピー)がハマれば、
正のフィードバックを作り、あとは雪だるま式に進むことが出来るんだな、と綾鷹を飲みながらふと思いました。
ポッキーの日の発注ミスと、ネットの正義センサーと、リアルの「そうは言っても、ねえ?」
「誤発注しちゃった☆助けて!!」→「助けようぜ!!」(笑)
ポッキー10倍も誤発注、青ざめた大学生協に… : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
またどこかの生協がやらかしたらしいです。
この手の”桁の発注ミス”、過去に何度もありましたよね…。
もうさすがにわざとだろ、と思っていると、2chでもそういう意見がチラホラ。
【同情商法?】ポッキー大量『発注ミス3200個』北九州大学生協がSNSで購入支援呼びかけ話題に。 : オレ的VIPPER速報@2ch
いや、そう感じますよね。わかるわかる。
ネットでは割と冷めた意見(「もう飽きたわ」「流石にアウト」「胡散臭い」「そんなにリツイートされたいの?」)が散見されてます。
しかし、読売新聞の記事を見ると、
学生たちがツイッターやLINE(無料通話アプリ)で購入を呼びかけ、支援の輪が急速に拡大。これまでの4営業日で普段の100倍近い1700個が売れる異例の展開となっている。
とのことで、リアル(現場)では少なくとも別に大規模な嫌悪感は無い様子。
このリアルとネットでの違いって何なんでしょうか。
ネットでの冷めた見方と、リアルでの感動的(笑)な展開との違いって?
ネットでの冷めた見方に対して、なぜリアルでは未だに好意的に受け止められているのでしょうか。
・「あのよくtwitterで見るパターンだ!」となり、その現場を体験したかった
っていうのが考えられるかもしれません。
でも、それだけだったら写メってtwitterに流せばいいだけで、「1700個売れた」ことが少し不思議。もっと強い感情があったはず。
実際に、記事の中でも
お菓子を買いに来た法学部2年生(19)は「ツイッターで話題になっていたので貢献しようと、5個買いました」と笑顔を見せた。
と、少なくともわざわざ数個買っている学生が数百人いてもおかしくないぐらいに売れている。だとしたら、
・リアルでの正義センサーとネットでの正義センサーの質が違う
なのではないか、と。
リアルの正義センサーとネットの正義センサーはまだ違う?
今回の「ポッキーの日に誤発注しちゃった☆騒動」、こんなにもネットとリアルでの反応が違った原因は、
「リアルでの正義センサーとネットでの正義センサーが違う」
ことにあるんじゃないか、と思うのです。
ネットは基本ひとりで見るものであるため、自分の中で純化された正義を他人に対して使うことが出来ます。(いわゆる”自分を棚に上げて”)
誰からも見られない非常に安心する立場でリアルを見られるため、どんな人でもどうしてもそうなってしまいがち。
それに対してリアルでは、意見を述べると逆にすぐに嫌でも他人からの何らかのフィードバックをうけます(良くも悪くも)。ゆえに最初に自分の中に厳しい正義基準が出来ても、よっぽど周りに自分とうり二つな人間だけがいるとかじゃないかぎり、それはマイルドになっていきます。「そうは言ったって、ねえ?」が一人でいる時よりも大きくなります。
今回の「ポッキー誤発注」の場合も、きっと一人でネットで見ている分には、各々の純化された正義基準が顔を出してきて「流石にもうわざとだろあざと過ぎだろそんなんで儲けんなよ」と言いたくなります。
しかし、いざリアルの場にいる人間は、一度たとえそう思っても、周りが「まあポッキーの日だし1個ぐらい食べね?」と言い出せば、まあいっか、となる可能性が非常に大きい。全員が全員厳しい正義基準を持っている場合なんてそうそうないだろうし。
ネットでは厳しく見られることも、(そしてそれは正しい時ももちろん多いのですが)まだまだリアルでは、「そうは言っても、ねえ?」が強いのだな、と今回の事件でふと思いました。とくに同調意識が強いこの国では、まだまだそんな感じな気がします。
いくらネットで「これは正義じゃねえだろwww」と言っていたって、リアルでは「そうは言っても、ねえ?」が頭をもたげてしまう。
ネットとリアルでは思考回路が変わるから、
ネットによってリアルの意志決定が変わる、というのは、まだなかなか難しいのかもな、と感じました。